狛江に住んだのも何かのご縁。パワフルな狛江の女達が、みんなで狛江暮らしを楽しんでいます!

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 歴史的資産 (こまめ的ステキ)

今から百万年前、狛江は海でした。多摩川の河口も青梅市付近にあって、上流の山々から押し流された土砂が堆積して海を浅くしてゆきました。
今でも、多摩川の宿河原堰堤の下流付近では貝類の化石が見つかります。

5千年ほど前の縄文時代になると、狛江市の大部分は立川段丘面上にあって、日当たりがよく段丘崖下には湧き水や川が流れ、居住環境として大変優れた場所として、狩猟や漁ろうの生活を営む人々が多く住んでいたようです。
縄文中期の遺跡や遺物も発見されています。

由来

狛江の地名が文献に現れるのは、平安時代のはじめです。承平5年(935)ころ源順によってかかれたといわれる「和名類聚抄」に登場する「武蔵国狛江郷」は、現在の調布市、三鷹市や武蔵野市の一部をも含めた地域として載せられています。

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狛江の由来は諸説ありますが、7世紀に朝鮮半島で百済や高句麗が倒れて海を渡ってきた人々が帰化人として武蔵国に移り住んだことが、日本書紀などに書かれており、高麗人の居たところの「高麗居」が「駒井」となったという説がよく言われています。
(絵:多摩川/江戸名所図絵)

埋蔵遺産の宝庫

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昭和の初め、小田急線敷設の時、工事現場から土器のかけらが発見されました。発掘の結果、縄文中期(約3千年前)の住居跡二基とその上に古墳時代(6〜7世紀頃)の住居跡が三基などが現れたのです。(写真:弁財天池遺跡北半部分全景)

南方を掘り拡げれば、まだまだ多くの遺跡が発見されるはずでしたが、すでに道路や民家が建て込み断念せざるをえなかったそうです。

異なる時代の遺跡が重なり合うように発掘されたことで、狛江が古くからいかに人間の居住環境に適していたかが、立証されることになりました。  

弥生時代の遺跡も、現在の多摩川住宅の中とその東側の台地上でそれぞれ一カ所づつ発見されています。

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また、東京航空計器の敷地内から発掘された4世紀頃の住居跡から、多数の土器がみつかりました。
これらの土器類は縄文式とも弥生式とも異なる特徴を示していたので、特に「和泉式土器」と名付けられています。
狛江第一小学校角にレプリカがあります。
(本物は航空計器に社長室にあるというウワサ…)

幻の古墳群

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以前は、狛江の畑路を歩くと一見してそれとわかる古墳が、あちこちにみられました。こんもりと木が繁り、稲荷などの祠が建っています。

「狛江百塚」と呼ばれた70基あったといわれる古墳も今ではほとんど取り壊されてしまい、完全な状態で残っているものはほとんどありません。

すでに取り壊された「亀塚」(元和泉:亀塚碑)は、この付近ではめずらしい帆立貝敷き前方後円墳で、面積三百坪高さ7mもある推定年代六世紀前半の古墳でした。ここから発見された多くの副葬品のなかから特に20.8cmの鏡に注目が集まりました。

後漢時代(1〜2世紀)頃の中国でつくられた「神人歌舞画像鏡(人物画像鏡)」は、大阪・石川・奈良・熊本などから同類鏡が出土しています。

前期古墳には、この舶戴鏡が特別な扱いで埋納されている例はしばしばみられますが、後期の古墳にしかも中央から離れた関東で発見されたことで、鏡の伝世とともに重要な問題を含んだ逸品といわれています。


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